災害のリスクの考え方
夏休み2日目に入ったが結果的には落ち着かない1日だと感じた。なぜならば、連日の地震でその被害を実際に想像するような出来事があったからだ。2024年8月8日、日向灘でM7.1の地震が発生し、初めて南海トラフ地震臨時情報(巨大地震注意)が発表された。この情報システムは2017年11月1日から運用が開始されていたが、実際の発表は今回が初めてとなった。巨大地震注意では大規模地震の発生の可能性が平常時より相対的に高まっていると考えられることを示したものである。
本日8月9日には神奈川県で最大震度が5弱の地震が発生している。南海トラフの想定震域外であり南海トラフとの関連は低いとされている。しかしながら、東日本大震災を経験しあの地震でさえも超越するような被害が予想される南海トラフを予想外の形で想起されてリスクを身近に感じる出来事となった(このことがなければ香水の館の一件を書く予定であった。また気が向いた時に書くこととする)。
リスクを身近に感じたと言ったが厳密にリスクとは何を指すのか。危機管理(リスクマネジメント)におけるリスクはとある事象が起こる確率とその事象が起きた時の影響の度合いを掛け合わせて評価したものをリスクという。投資におけるハイリスクハイリターンのようなリスクの考え方とは異なる。危険の度合いを発生確率で期待値を算出するごとくに危険度を測るような考え方である。
この考え方に今回の巨大地震注意を当てはめるとどうなるか。巨大地震は日常的には起こらないものの被害は甚大である。そのため日頃からの備えや防災の取り組みは大切である。東日本大震災では未曾有の被害とされており震災に関連する直接的・間接的な死者は2.2万人以上とされている。東日本大震災は人々の心にも深い傷を残し地震に対する認識を大きく変えた方も東日本で特に東北地方の方々に多くいらっしゃるだろうと思う。
東日本大震災は経験したことのないような傷跡を残したが、南海トラフは未曾有の被害とされる東日本大震災を遥かに上回る32.3万人もの死者が最大値として予想されている。東日本大震災の時に相対的に大きな被害が出ていない西日本で東日本大震災の20倍もの人的被害が予想されている。この点に結果の重大性についてのリスクが非常に重く感じる。そのようなとてつもなく大きな結果が起こる可能性が相対的に上がっているということは、たとえすぐに起こるかもしれないし起こらないかもしれない状態であっても今はその大きな被害が確定していないだけある。このまま大きな被害が起こらないことがとても望ましいが被害と相対的な発生確率の観点では重大なリスクであると考えられる。
私は東日本に住んでいるが南海トラフで巨大地震が起こった場合に震度5弱以上の震度の予想が出ている。東日本大震災の時も震度5弱・5強を経験しているがそれでも十分な被害である。また、南海トラフほどのとてつもないマグニチュードの揺れは東日本大震災のように長く不気味な揺れになるのでないかと不安もある。地震による直接的な被害の他にも、火事や交通インフラの被害、流通の麻痺、水道・電気などの需給バランスの崩壊、富士山の噴火による火山灰の被害が予想される。
正直なところ個人で対応できることを超えている印象もある。国や地方自治体も防災や減災には取り組んでいるものの、個人の備えは個人で行う必要がある。あらゆるリスクを専門家でもない個人が潤沢にお金を使い完全にリスクに備えるということは不可能だ。どこまで個人がリスクに対応できるか、効率よくどのリスクに対応しどのリスクは仕方なく受容するかの取捨選択も必要となる。もしくは受容ではなく予期しないリスクに見舞われる恐れさえもある。予測できないところや備えきれないところに対して私は個人で対応できることの限界は超えていると感じている。
ひとまず、500mlの水を48本注文した。その他にはアイマスクや非常食、救急キットはお家にあるのでその他にも必要なものを少しずつ調べてリスクを評価して備えていくつもりだ。水もたくさんあると不便なように感じるかもしれないが少しずつ消費しながら水を買い足していく。日常的に防災用品を使いつつ被害に備える手法はローリングストック法と呼ばれる。
巨大地震注意は一週間を目安としている。しかしながら、実際に一週間を超えた後もリスクが普段通りになっているとは限らず継続して注意が必要である。継続して注意し続ける難しさもあり仮に一週間とされているが、無理なく継続的に注意ができるような仕組みが必要だと思う。
全てのリスクについて把握しているわけでもない。それでも南海トラフのリスクについて死者の人数からわかりやすく非常に重いものであると感じた。そのためここ一週間は生活の中に少しずつ個人の防災を取り入れて習慣化することに取り組みたいと思う。また、できれば西日本の方々も我々東日本に住む者も南海トラフの被害を知ることなく平穏に過ごせることを祈るばかりである。